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「古書 月岡芳年」
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古書 月岡芳年

月岡芳年

歴史絵や美人画、風俗画に古典画、役者絵など様々な画業をこなした画家が、骨董買取・月岡芳年です。没落していく浮世絵の世界を救い成功した事でも知られており、最後の浮世絵絵師としても有名な人物です。そんな、月岡芳年は1839年に江戸新橋南大阪町に生まれます。商家であった吉岡兵部の次男で、本名は米次郎と言います。そして、後に月岡家・月岡雪斎の養子となっています。月岡芳年の経歴には諸説があり、結果的に四条派の絵師に付いていながら、売れないことを見込み、その後に歌川国芳に入門しているとも伝えられています。12歳の頃に歌川国芳に入門をする月岡芳年は、武者絵に役者絵などを多く手掛けることとなります。15歳の頃には、画本実語教童子教余師に吉岡芳年の号で、始めて挿絵を描いていることも知られています。さらに、若くして高い評価を得ているのが、1866年から1867年にかけて作った「英名二十八衆句」。こちらは、兄弟子の落合芳幾との競作でありながら、その血なまぐさい迫力ある画風で大きな話題となります。その後、様々な作品を手掛けていく月岡芳年だったのですが、1870年には神経衰弱に陥っていき、作品を生み出すペースも非常に遅くなります。そして、その2年後には自信作として制作を続けていた「一魁随筆」の人気が良くないことに心を痛め、より郷土の神経衰弱に陥っていってしまったのです。しかし、1873年にその状況から立ち直ることとなり、号を大蘇芳年に変更。洋画、菊池容斎などの画を研究し続け、より研鑽を磨く日々を送って行きました。そして、ついに大作である、6枚つながり錦絵「桜田門外於井伊大老襲撃」を発表し、画家としての新しい出発を成し遂げます。その後、様々な作品を世に送り出し、浮世絵師部門での筆頭として活躍を続けることになります。弟子達にも恵まれながらも、「新形三十六怪撰」の制作途中で不運が続き、1892年に仮住まいにて脳充血してしまいました。無惨絵や美人画、歴史絵など数々の美しい作品を残し続けていった月岡芳年。彼の功績は広く、そして日本美術界に大きな影響を与え続けて行くことでしょう。